
軒原庄蔵
(「大川町史(現在は絶版)」より転載。原盤不鮮明のため、画像を加工しています。)
水の恩人、軒原庄蔵は、文政十一(1828)年七月高田村に生まれる。水不足に困る弥勒池(本市大川町)の貯水増のため、三ッ石山の岩盤をほりぬき、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。
随道工事は、当時田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎などの協力を得て、安政二(1855)年からほり始め、安政四(1857)年11月14日の夜明けに貫通し、長さ百五間の石穴を貫通させる難工事であった。
この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格にとりあげられた後、明治二(1869)年満濃池の閘石穴穿鑿工事を命じられ、明治三(1870)年三十間余の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池湖畔の松崎神社に合祀されている。
明治二十三年(1890)六十三歳でふる里に没した。
弥勒石穴:国の登録有形文化財に指定