■さぬき市の歴史
さぬき市には、縄文時代の遺跡として鴨部・南谷遺跡、弥生時代前期の環濠集落遺跡として鴨部・川田遺跡、中期の高地性集落として津田・北山遺跡、後期の竪穴式住居跡群の石田東・森広遺跡などが知られています。市内各地に古墳群があり、富田中・富田茶臼山古墳は総長163mで四国最大の前方後円墳で、国指定の史跡となっています。
さぬき市は、8世紀ころから1899(明治32)年の香川県下郡廃置法律により大川郡が設けられるまでは、おおむね讃岐国寒川郡の区域でした。
古代律令国家においては、地方行政単位として、国の下に郡、郡の下に郷があり、寒川郡には難波郷、石田郷、長尾郷、造田郷、鴨部郷、神埼郷および多和郷の7郷がありました。これらの郷名はのちの町村名になったものもあります。
また、全国を畿内7道にわけたとき、四国の4国は、淡路国・紀伊国とあわせて南海道に属しました。また、各国と畿内とを連絡する道路としての南海道が設けられました。さぬき市の区域では、田面峠から高松市に至る長尾街道がほぼそのルートとされて、田面か富田中に駅がおかれていたようです。
平安時代から室町時代にかけて、鶴羽荘、富田荘、鴨部荘、志度荘、神前荘、造田荘および長尾荘の7荘園の成立が確認されています。 源平の争乱時代、1185(文治元)年に源義経軍と平氏軍が屋島や志度で戦いました。
室町時代を通じて讃岐国の守護職は、管領に任ぜられる京兆家の細川氏が世襲しました。守護の職権を代行する代官として守護代があり、讃岐国の東半部の守護代は安富氏でした。津田・富田中・神前の境界となっている雨滝山(253m)にある雨滝城跡は、安富氏の城跡です。
戦国時代になると、讃岐国も争乱状態となり、阿波国の三好氏の支配、ついで土佐国の長宗我部氏の侵攻、豊臣秀吉が派遣した仙石秀久軍の到来がありました。
1585(天正13)年、仙石軍と長宗我部軍は講和し、讃岐国のほとんどは仙石氏の領地となりました。翌年、仙石氏は領地を没収され、尾藤知宣の領地となりました。さらに翌年、尾藤氏は領地を没収され、生駒親正の領地となりました。
徳川家康は、生駒氏の讃岐国支配を認め、高松生駒藩が成立しました。1640(寛永17)年、「生駒騒動」により生駒氏は改易となりました。
そののち、讃岐国の東部中部のほとんどの区域は、1642(寛永19)年から1871(明治4)年の廃藩置県の約230年間までは高松松平藩領となりました。初代藩主は、松平ョ重(徳川家康の孫、2代目水戸藩主徳川光圀の兄)です。
江戸時代中期に活躍した博物学者・作家の平賀源内は、志度で生まれました。また、そのころから東讃地方ではサトウキビの栽培が始められ、砂糖は、塩、綿とともに"讃岐三白"といわれました。
明治維新時に讃岐国寒川郡には、津田村、鶴羽村、田面村、富田東村、富田中村、富田西村、南川村、志度村、末東村、末西村、小田村、鴨部東山村、鴨部中筋村、鴨部下庄村、神前村、石田東村、石田西村、乙井村、野間田村、是弘村、宮西村、長尾東村、長尾西村、長尾名村、前山村、奥山村、五名山村の27村がありました。
このうち、五名山村を除く26村のすべての区域がさぬき市となりました。また、これらの村名のほとんどは、さぬき市の「大字」名として現在でも存続しています。
廃藩置県により高松藩領は高松県となり、そののち、〔第1次〕香川県(1871)、名東県(1873)、〔第2次〕香川県(1875)、愛媛県(1876)と変遷し、1888(明治23)年12月5日に〔第3次」香川県となり、現在に至っています。
なお、名東県時代の1874(明治7)年に東末村と西末村が合併して末村となっていました。
1890(明治23)年2月15日、香川県下に市制町村制(明治21年法律第1号)が施行されました。寒川郡では、田面村と富田東村の2村を合併して松尾村、富田中村、富田西村および南川村の3村を合併して富田村、志度村と末村の2村を合併して志度村、鴨部東山村と鴨部中筋村の2村を合併して鴨部村、石田東村と石田西村の2村を合併して石田村、乙井村、野間田村、是弘村および宮西村の4村が合併して造田村、長尾東村、長尾西村、長尾名村および前山村の4村が合併して長尾村、以上の新しい7村と、従前からの津田村、鶴羽村、小田村、鴨部下庄村、神前村、奥山村および五名山村(のち五名村と改称)の7村、合わせて14村が村制を施行しました。
これがいわゆる「明治の大合併」です。合併を伴った村では従前の村名は「大字」として、ほとんどが残されました。
1898(明治31)年2月11日、津田村および志度村がそれぞれ町制を施行し、〔第1次〕津田町および〔第1次〕志度町となりました。
1899(明治32)年4月1日、香川県下郡廃置法律(明治32年法律第41号)が施行され、寒川郡は大内郡と合併して大川郡となりました。
1911(明治44)年に志度・高松間、1912(明治45)年に長尾・高松間に電車の営業が始まりました。
1915(大正4)年11月10日、長尾村が町制施行し、〔第1次〕長尾町となりました。
1916(大正5)年1月1日、鴨部下庄村が「鴨庄村」と改称しました。
1919(大正8)年1月1日、奥山村が「多和村」と改称しました。
1925(大正14)年に国鉄高徳線高松・志度間、1926(大正15)年に志度・讃岐津田間、
1928(昭和3)年に讃岐津田・引田間が開通し、高徳線全線が開通しました。
1955(昭和30)年1月1日、{第1次〕志度町、鴨庄村および小田村の3町村が合体(*)して〔第2次〕志度町となりました。
(*)合体・・・合併のうち、市町村を廃し、その区域をもって新たに市町村を置くことをいいます。また、「編入」とは、市町村を廃し、その区域を他の市町村に編入することをいいます。「境界変更」とは、市町村の区域の一部を他の市町村に編入することで、市町村の法人格に変動がないものをいいます。
1955(昭和30)年4月1日、〔第1次〕長尾町と多和村が合体して〔第2次〕長尾町となりました。
1955(昭和30)年4月15日、松尾村と富田村が合体して大川村となりました。
1955(昭和30)年7月1日、神前村と石田村が合体して寒川村となりました。
1956(昭和31)年9月8日、〔第1次〕津田町と鶴羽村が合体して〔第2次〕津田町となりました。
1956(昭和31)年9月16日、〔第2次〕長尾町と造田村が合体して〔第3次〕長尾町となりました。
1956(昭和31)年9月30日、鴨部村が〔第2次〕志度町に編入されました。
1955(昭和30)年から1956(昭和31)年までの、いわゆる「昭和の大合併」により、大川郡は6町17村が6町2村となりました。
1959(昭和34)年11月1日、〔第3次〕長尾町は、境界変更により木田郡三木町大字井戸の一部(近世から1899(明治32)年まで三木郡井戸村、のち木田郡井戸村、そののち木田郡三木町大字井戸の東半部、2.71ku、住民数1,640人)を加え、長尾町井戸(1959年11月15日、「長尾町昭和」に改称)としました。
1961(昭和36)年9月1日、大川村および寒川村がそれぞれ町制施行し、大川町および寒川町となりました。これ以降、さぬき市成立まで大川郡8町時代が続きました。
1998(平成10)年3月26日に高松自動車道のさぬき市の区間(津田東IC・さぬき三木IC間)が開通しました。
2002(平成14)年4月1日、〔第2次〕津田町、大川町、〔第2次〕志度町、寒川町、〔第3次〕長尾町の5町が合体・市制施行して、さぬき市となりました。 |