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その他の施設
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さぬき市田園空間博物館の周辺にある施設等を紹介します。 | ||
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志度寺 |
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補陀落山清浄光院と号し、もと真言宗御室派、仁和寺の末伝で、格は中本寺である。
四国霊場86場所の札所で、寺域33,000m2、東讃随一の名刺である。本堂、山門、本尊十一面観世音、脇土不動明王・毘沙門天は国指定の重要文化財である。 志度寺縁起では、推古天皇の33年(625年)、几薗子尼が志度浦へ流れ着いた霊木で十一面観世音の像を彫らせて、一間四方小堂に祭ったのが始まりだという。持統天皇のころ藤原房前が母の追善のため伽藍を修造し、行基菩薩を開基とし志度道場を改めた。この道場は御衣木の縁起によって、炎魔王の氏寺とされ、白杖童子・当顔暮当の縁起あるいは松竹童子縁起などによる平安時代の再興や千歳童子、沙弥阿一の蘇生による鎌倉時代の修造の伝説も伝承された。 当寺住職覚阿上人のころ、源平屋島の四天王佐藤継信の忠死に引導を渡したお礼として、名馬大夫黒と太刀一振の九郎判官義経の寄進、元寇の役に際しては敵国降伏の祈祷を幕府から命ぜられ、室町時代にかけては細川氏代々の保護寄進があり、室町中期に至るまで隆盛を極めたが、文明十一年(1479年)火災にあい、更に天正十年土佐長宗我部勢の兵火に堂宇を消失したと伝えられる。 慶長九年(1604年)高松藩主生駒親正の夫人教芳院が、故親正を弔うため観音堂を再興し、同時に長尾宝蔵院極楽寺の末寺から離れた。その時の就職は円朝であった。 その後、寛文十年(1670年)松平頼重が本堂及び山門、炎魔堂・奪衣婆堂を建立して伽藍としての面目を整えた。これが現存の建造物である。 |
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志度寺
さぬき市志度1102 JR志度駅から北東へ徒歩10分 (問) |
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